初期マルの経哲(1)


長谷川 宏氏の「ヘーゲルからマルクスを、マルクスからヘーゲルを読む」と題されたトークイベントが神保町の東京堂書店であり、会社を早めに引き上げて向かう。


この催しは、「光文社古典新訳文庫」シリーズから今年6月に、あのマルクスの『経済学・哲学草稿』(略して「経哲」)が氏の新訳で刊行された記念講演。


長谷川氏といえば、難解と言われたヘーゲルの『精神現象学』を平易な日本語に訳して一躍脚光を浴びたことが印象に残っている。


その長谷川氏がマルクスを訳したことは、恥ずかしいことについ先日まで知らなかった。


マルクス知名度といえば今となってはニッチもいいところなのでは?
ほとんど『資本論』、それから、エンゲルスと『共産党宣言』を著した人という理解にとどまるのではないか?


同じ『資本論』でもフランス語版は内容が異なることや、共産党宣言の「党」は政党のことではなく「主義者の集まりparty」という解釈もありうることなど、あまり知られているとは言い難い。
ましてや「経哲」(実はこれは著作以前のノート)の存在など、推して知るべし。ただし、60年代・70年代の「政治の季節」には「初期マルクス」(略して「初期マル」)としてよく読まれたようなので年齢によって差が出てくるのか。


いずれにしても思い切った企画だ。ただ「無謀」でもなかろうと思える。


氏も述べられていたが、「政治の季節」にマルクスを専門にするのは「勇気」が必要だったようだ。氏はその「勇気」の内容を具体的にはあまり述べられなかったが、想像するに、学問的にも政治的にもナワバリが随分張り巡らされていて、要するに「言論の自由」があまりなかったのだろう。氏がターゲットをマルクスに絞らなかった一因はここにあるのではないか。


この時代、そんなことをあまり気にする必要はなくなったので、かえってマルクスをじっくり読み直そうという機運が熟成しているかもしれず、その意味で「無謀」とも言い切れない。


さて「光文社古典新訳文庫」の紙面を見てみる。
大月書店・国民文庫版・藤野 渉訳と比較すると、ずいぶん文字サイズが大きくなった(ということはページあたり行数と行あたり文字数も少なくなった)。


国民文庫版はページあたり18行、行あたり42文字。
古典新訳文庫版はページあたり15行、行あたり38文字。
ページあたり200字弱の差。


訳文はどうか?

第3草稿の最後の部分(断片4)は表題が、国民文庫版「貨幣」、古典新訳文庫版「お金」!


国民文庫版:
「……したがって貨幣は——貨幣の所有者の立場から見るなら——あらゆる属性を、それと矛盾するようなものも含めてあらゆる属性および対象と、交換する。貨幣は、できぬ事どうしの結合であり、矛盾しあっているものどうしを無理やり接吻させる」(203ページ)。


古典新訳文庫版では:
「……お金を所有する人の立場からすれば、あらゆる特性をあらゆる特性と——当の特性に矛盾する特性や対象とも——交換するといえる。それは結びつきそうもないものを結びつける力であり、相矛盾するものにキスを強要する力だ」(250-251ページ)。


——優劣は付けがたいが、さすがに「接吻」よりは「キス」のほうが分かりやすいw


ところが、次のくだりは検討の余地がありそうだ。


国民文庫版:
「(二)感覚的肯定とは自立的形式における対象を直接に止揚すること(食う、飲む、対象を加工する等々)であるばあいは、このことは対象の肯定である」(194ページ)。


古典新訳文庫版:
「(二)感覚的な肯定が、独立に存在する対象を直接に破棄するという形をとる場合(食べる、飲む、対象を加工する、といった場合がそうだ)、破棄することが対象を肯定することだ」(241ページ)。


今日はここまで。